「人生は“切れる”ことから始まる」 松木正さん第1回インタビュー

 

生命(いのち)の働きというのは、その人にしかない人生を形作っていく、エッセンスのようなものがたぶん一人一人の生命の中にあって、その人らしい、その人にしかない人生を形作っていこうとする。それはすごく創造的な力。そのエッセンスはそのように人生を形作っていくし、出会いを生み出していく。そこでいろんな出来事を経験させる。それはエッセンスの成せる技、と思うのよね。

我々の中には、エッセンスがあるし、それは、「種」のようなものかもしれん。もとになるもの。と考えたら、その生命の働きに従って、一人一人は、どんどん自分になっていく「木」「樹木」ということ。つまり、一人一人はみんな、生命の木。生命の働きに従って、その人になっていく、その人の人生を形作っていく木。だから木の形は、まさにその人の人生そのものを表している

その始まりは、そもそも親木の生命の木から分離した、つまり、落ちたというところ。生命の始まりは分離やと思うのよね。種は、必ず元々は、親木から落ちたことが始まりやから、「切れる」ことが、全ての生命の働きが起動を始める一番最初なんやね。そして、落ちた種が最初に誰に教わらなくてもすることが、大地に根をおろすということ。芽を出すんじゃなくて、先に根をおろすということがすごく意味深いことだよね。

大地の母に根をおろすということは、大地を信頼し、そして大地に抱かれるということ。とっても母性的なものの中に、安心して根をおろすということ。根をおろすから、上に伸びていくことができるのよね。その人がその人になっていく、どんどんその人の人生を表現していくのは、枝葉を伸ばしていく、つまり外界に自分を表現していくということやけども、外に広がっていこうと思うと、その分だけ、根っこが中に広く広がっていないとあかんから、この上の部分と、地面から下の部分のバランスはすごく大事や。

根をおろすということと根を張るということ、ある種の大地との信頼でもあるよね。そのことなしに、その木になっていくということはない、ということやと思うのよね。その根っこの張り具合、根をおろすことやったり、根を張っている様子、これが豊かであるということが、自己肯定感が育まれている様子と考えられるよね。

人は誰しも「分離不安」を抱えている


赤ちゃんは、ある種の不安がいっぱいだよね。「分離不安」という、お母さんのお腹から生まれてきて、要はへその緒が切れたときの切れた感がものすごく強い。生まれるときに破水して生まれてきて、いろんな音も聞こえてくるし、たぶん、いろんなものも動いているし、いままで完全に羊水で守られている状態から、守られていない状態、水がなくなるわけやし、音からも守られていない、衝撃からも守られていない状態になったときに、ものすごく恐怖を感じたはずや。

 

人によっては、この大きなエネルギー、このすごく恐ろしい感覚と、この分離した時のこの不安感を総称として、ある種の外傷体験として、バーストラウマというのよね。赤ちゃんはこのすごく大きな不安、不安という大きなエネルギーをいつも抱えていて、すぐ不安になって親を求める。だから、自分を不安な状態から、ある種の恐怖感から、すぐ安心に、安全にちゃんと移行させてくれる、特別な人が必要やと思うのよね。


誰でもいいんじゃなくて、とっても愛着を感じる人。愛着を感じるということは、誰でもいいというじゃないよね。愛着関係は、不安を安心に変えてくれるし、危険だと思ったものを安全にしてくれるし、不快だと思っているものを、ちゃんと心地よい状態に変えてくれる、という特別な人がやっぱり必要やと思うのよね。その人がまずいてくれるということが大事やと思う。それがまさに、【BE WITH】という、ともにいてくれる人で、そこから育まれ始まるのが自己肯定感かと思うのよね。

 


・・・親と愛着形成がしっかりできていればいいですけれど、もともと親がいないというケースもあれば、なかなか親との愛着形成が難しいという場合もあると思うのですが・・・

望ましいのは、自分の実の親が愛着者になるということ、親と愛着形成ができるということが一番と思うのよね、やっぱり。特に望ましいのは母親やと思う。父親にも母性はあるし、だから父親で代行するというケースもあるかもしれない。けれども、母親から生まれてきたことは確かやし、逆に言ったら母というのはそのくらいかけがえのない存在やと思うのよね。だから母に育ててもらうということ、ちゃんと母が母の機能を果たすということほんとは大事なことと思う。

だけど、必ずしもそうやって親に恵まれて、恵まれた環境、恵まれた状態でない場合もあるよね、やっぱりね。そのときには、誰かしら、その人に親に代わる、愛着者、誰か特別な人は必要だよね。その方が望ましいかもしれんよね。もし、それがだめやとしたら、何人かの人で代行するということが必要かもしれんし、みんなで分担するということも必要かもしれんよね、本当はね。

そうやって考えると、ある種の、親子という血縁関係でない、われわれがよく使うような「ティオシパイェ」という拡大した家族、つまり親のような母親のような人がいたり、父親のような人がいたり、おじさん的な人がいたり、グランパみたいな、おじいちゃん的な人がいたりという、もしかしたら家族という血縁関係の枠組みでない、何かが、いま必要かもしれんよね。

 

第2回に続く →自分のあるがままを話すことは「主体性」の始まり

 

 



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